
演出が悪いんだと思いますが、あの名優モッくんが、主役なのに全然輝いてません。
あれだけ名優をこれでもかこれでもか、と、投入して、伊藤博文に加藤剛!を持ってくるという荒業で、この体たらくは、いったいなんなのか。
辛うじて見られるのは、香川照之と菅野美穂兄妹のからみはそこそこ。二人のお母さん役の原田美枝子さんはすごいです。でも、この正岡子規家族のシーンを楽しみにしているのも、私が菅野ちゃんのファンだからで、鬼才香川・奇才菅野とも力出し尽くせず、という感じです。
日清日露を通じて、日本を脳天気に描く「坂の上の雲」、映像化を危険視していましたが、これじゃあ、日本の経済を元気にするとか、国威が発揚するとか、ありえない感じです。視聴率も15%くらいでしょう。じぇんじぇん危険になりそうな予感なし。
司馬遼太郎大ファンの妻イエティ(高校時代の夢は「新撰組血風録」「燃えよ剣」の土方歳三になることで、剣を志し、道場に通っていた)が、山崎豊子『不毛地帯』の方がずっと面白い、といっておりますので、来年、再来年、とさらに視聴率は悪くなるのではないでしょうか。
私個人としては、結果として、このドラマについて騒ぎすぎたな、と思っているのですが、秋山兄弟たちの地元愛媛から、こんな通信が来ました。
勉強になりましたので、ご紹介します。
「えひめ教科書裁判を支える会」からのお知らせです。
ドラマ『坂の上の雲』の感想と『坂の上の雲』検証ブックレットのご案内
NHKドラマ『坂の上の雲』の第3回後半から第4回にかけて、日清戦争が描かれた。日清戦争とは、朝鮮から清の勢力を逐い出して、日本が朝鮮を単独支配するために、日本の方から主体的・積極的に起こした戦争である。
「清国軍と平壌あたりで一戦をまじえ、勝利を得たのち和を講じ、朝鮮を日本の支配下におく」
(林薫外務次官(当時)著『回顧録』)
「曲を我におわざるかぎりは、いかなる手段にてもとり開戦の口実を作るべし」
(1984・6・22,陸奥外相が加藤増雄書記官を朝鮮に特派したとき持たせた内訓)
そして、まずは1894年7月23日に朝鮮王宮を軍事占領して、大院君(国王の実父)に、清国軍を朝鮮から駆逐するよう日本に依頼する依頼する文書を、脅迫・強圧的に出させ、日本の方から一方的に清国軍を攻撃し始めたのである。
しかし、ドラマ『坂の上の雲』の第4回目の放送は以下のようなナレーションから始まった。
「朝鮮西岸の豊島沖で日本艦隊は清国艦隊と遭遇し、戦闘の火ぶたが切られた」
日本の邪悪な意図はもちろん、日本の方から主体的、積極的に戦争を仕掛けていったという<歴史的事実>に即した事実経過さえ、ここでは、見事に切り捨てられ、日本の侵略・犯罪性が隠蔽されてしまっているのである。
これはごく一例に過ぎないが、やはりドラマにおける<日清戦争の性格づけ>も、司馬の書いたとおりである。ただ、原作にはない点があった。それは、中国での日本軍の横暴ぶりを示唆する描写と、それに対する中国人の反感である。これが<全体の中の点景>のように、エピソード風に描かれていた。
これをもって、原作には全くない、アジアの他国の人々からの視線が補充されていて良し、と言えるだろうか。私には、原作『坂の上の雲』のもつ危険性がいっそう増した、と感じた。
上記一場面は、日清戦争を正当化して描くという全体の基調と、秋山兄弟を英雄的に――ときに非常に効果的に、日の丸をクローズアップして映し出しながら――描くことを中心として醸し出されてくる<ナショナルな心情>という全体の雰囲気の中に埋没する一コマに過ぎない。
しかし、この「一コマ」を描くことによって、「ああ、このドラマは、単に、日本中心の手前勝手なものではなく、ちゃんと他国の人びとの視線も描いている客観的なものだ」と印象が生じ、全く自国日本中心に、日本に都合のよいように主観的に描いている<全体>に対する信用・信頼度を増す効果を果たすことになるのではないだろうか。
かくて、右翼などではない、昭和の軍部を批判する司馬の書いていることだからと、もともと安心し、信頼して受け取っていたであろう『坂の上の雲』で描かれているところの「歴史」を、視聴者は、さらに信頼度を強くして、事実と受け取り、ドラマの中に安心して没入していくのではないだろうか。