
記事の改訂もgoo版まで手が回りませんので、コメントもはてなブログの方でお願いします。
上下ともクリックしてくださると大変うれしいです。
安倍首相らの原爆平和記念式典でのあいさつが毎年の広島と長崎でのあいさつをコピペしていてほぼ同じだったのに比べて、今年の石破首相が広島でも長崎でもオリジナルで自分の言葉で語っていたいというのが話題になっています。
確かに石破首相は広島では原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれた、歌人・正田篠枝さんの歌を
「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」。「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」。
と2回読み上げ
「万感の思いを持ってかみしめ、追悼の辞といたします。」
と締めくくりました。
長崎では「この子を残して」で有名な故永井博博士の
「ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ」
という言葉を紹介して、石破首相は
「長崎医科大学で被爆された故・永井隆博士が残された言葉です。長崎と広島で起きた惨禍を二度と繰り返してはなりません。」
と言いました。
最近の自民党出身の首相とは一味違うところを示したとは言えるでしょう。

しかし、自分のあいさつなんだから自分の言葉で語るのは当たり前。
まして広島と長崎で違うあいさつをするのは当然でしょう。
そんなことは当たり前で、違う挨拶をしたら話題になる今の自民党政治がおかしすぎるんです。
菅義偉首相が自分のあいさつを1ページ飛ばして読んでも気づかず、ノリで引っ付いていたので大事なところを読み飛ばしちゃった~、とあとでいいわけした、みたいなことが起きてきた自民党政権の歴代の首相たちがおかしかったのです。

広島原爆忌にIOCは黙祷を拒否。菅総理は記念式典で「核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国」「核兵器のない世界の実現に向けた努力」の下りを丸ごと読み飛ばす(呆れ)。
そして、石破茂氏も頑なに、核兵器禁止条約については一言も触れませんでした。
広島では
『結びに、ここ広島において、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを改めてお誓い申し上げます。原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊の安らかならんこと、併せて、ご遺族、被爆者の皆様並びに参列者、広島市民の皆様のご平安を心より祈念いたします。』
と語り、長崎では
『天を指す右手は原爆を示し、水平に伸ばした左手で平和を祈り、静かに閉じた瞼に犠牲者への追悼の想いが込められたこの平和祈念像の前で、今改めてお誓いを申し上げます。私たちはこれからも、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現と恒久平和の実現に向けて力を尽くします。』
と良さげなことを言っておきながら、核戦争のない世界を確実にする、核兵器のない世界にするための核兵器禁止条約について一言も触れないとはどういうことでしょうか。
美しい言葉で核兵器のない世界を語った分だけ、それが本気でないことがにじみ出ている石破首相の挨拶の欺瞞性と残酷さに怒りを覚えます。

ノーベル平和賞受賞の日本被団協が石破茂首相と面談。核兵器禁止条約の締約国会議にオブザーバー参加をするように要請したが、田中熙巳代表委員「石破総理の独壇場になり反論する時間が設けられていなかった」(呆)
日本被団協の今の共同代表の一人である田中熙巳(てるみ)さんは長崎で被爆された方です。
満州(中国東北部)で生まれた田中さんは軍人だった父親が病死したため、5歳の時に一家で日本に引き揚げ、親族を頼って長崎市で暮らすようになったそうです。
13歳の時に長崎の爆心地から約3.2キロの自宅で被爆。
「ガラス戸が飛んできた。あとでわかった。それが私の上に被さっている。被さった時に痛かったろうと思うんですけど、被さっていること自体も自覚がない。ガラス戸が1枚も割れなかった。それで私はけがをしないで済んだんです」
田中さんは親族らが住んでいた浦上地区に探しに行く途上、焦土と化し、数えきれないほどの死体が転がり、全身にやけどを負いながら手当も受けられずにうずくまる多くの人を目にしました。
田中さんの叔母といとこは炭がらのようになって自宅跡に転がっているのを発見しました。
「真っ黒に焼けて骨が出ているような死体が散乱している。2、3人が亡くなって、ほっぽり出されているのを見て、(心を)閉じました。何も感じなくなりました。感じないようにしたと言った方がいい。荼毘に付したおばさんの場合は、焼いた後に骨を拾うことになりましたから、その時は、その時だけ、ものすごい動揺しましたね。すごく大泣きしました。立っていられないくらい」
その後、祖父、叔父も亡くなり、田中さんは5人の親族を原爆で失いました。

どうやったらこの日本は良くなるか。見返りを求めず与える人たち、袴田巖さんのお姉さんひで子さんや日本被団協の被爆者の方々に学ぶ。
戦後、田中少年は極貧の家計を支えるため、中学生でもできる仕事を探して必死で働いたそうです。
田中さんは東北大学の助手として勤務していた1970年頃から被爆者運動に関わるようになりました。
田中さん自身は原爆による深刻な健康被害を受けていないことから、当初は「支援者」的なスタンスだったそうですが、原爆の悲惨さが世界に伝わっていない現況を変えなければならないと国際会議などにも積極的に参加するようになり、ニューヨークの国連本部での原爆展の開催を実現しました。
その田中さんと出会ったのは私が弁護士になった1年目で、田中さんが20年あまり務めた被団協の事務局長をなさり始めたころでした。


日本被団協の田中熙巳代表がノーベル平和賞受賞式で演説。「何十万という死者に対する補償は全くなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けています」と日本政府を告発。
あの穏やかな、実務家タイプの田中さんが石破首相の原爆式典でのあいさつに激しく抗議されています。
今日8月9日の長崎市の平和祈念式典に参列後、報道陣の取材に応じた田中さんは、日本被団協が参加を求める核兵器禁止条約について、石破茂首相が広島でも長崎でも式典あいさつで言及しなかったくせに、核5大国の核保有は合法とする核拡散防止条約(NPT条約)を重視すると述べたことについて
「政府は今までの考えを改めておらず残念だ。
われわれの要求に反している」
「首相は核兵器のことを本当に分かっている人ではない。
核抑止力を強調することは間違っている」
と語ったのです。

ノーベル平和賞の受賞発表から一夜明けた2024年10月12日、日本被団協が東京都内で記者会見を開き、私も何度も海外にお供した代表委員の田中熙巳(てるみ)さんが、石破茂首相が自民党総裁選でも議論すべきだと言及した持論の「核共有」構想に対して、
「論外。政治のトップが必要だと言っていること自体が怒り心頭」
と厳しく批判なさった。
ノーベル平和賞を受賞した日本被団協の田中熙巳代表委員が石破茂首相の持論「核共有」に対して「論外。政治のトップが必要だと言っていること自体が怒り心頭」と厳しく批判。石破自民党の安保構想が一番非現実的だ
もともと軍国主義者で、核兵器を日本も保有できるオプション(選択肢)を維持するために、プルトニウムを産出する原発も廃止しべきではないとテレビで堂々と語る石破茂氏。
当然、石破氏は核抑止論を肯定し、アメリカの核の傘のもとに日本の安全保障を図るという立場だから、核保有国の核兵器も一切禁止するという核兵器禁止条約には反対で、日本が同条約を批准して参加するどころかオブザーバー参加もしようとしないのです。
ロシアがウクライナ戦争3年半で何度となく核兵器を使うぞという威嚇を繰り返し、原発攻撃をして世界を危険にさらしている現実が目の前にあるのに。
そして、そんな石破氏でも安倍首相や菅首相よりはマシだ、核武装論者だらけの参政党よりは安心できると良識ある市民が望みをかけざるを得ない「現実」もまた今あるわけです。
保守政治から穏健でもリベラルに政権を奪取するしか、本当の意味で日本や世界を良くする道はないと思います。
日本被団協のノーベル平和賞授賞式にイスラエル・ロシア・中国が欠席。田中熙巳さんが記者会見で「アメリカは人道に反する兵器を使った」「プーチン大統領は核兵器が人間にとってどういう兵器か考えたこともない」
参考記事
朝日小学生新聞より
ノーベル平和賞・日本被団協田中熙巳(てるみ)さん(93歳)から小学生へのメッセージ
編集後記

広島選出で「核のない世界」を目指すことを売り物にする岸田首相が、首相としての初めての広島平和祈念式典での挨拶で、核兵器禁止条約について触れないだけでなく、一言も「核兵器廃絶」とさえ言わなかった。

原爆の日の平和記念式典にロシアとパレスチナは招待せずイスラエルは招待する広島市の支離滅裂な対応。ロシアもイスラエルも排除する長崎市の平和主義に徹底した方針と比較すれば、広島市の親米右翼思想は明らかだ。
広島出身で「核兵器のない世界」について本まで出している岸田首相も、核兵器の存続を前提にする核抑止論に立ち、核兵器禁止条約にオブザーバー参加さえしませんでした。
歴代首相のコピペ挨拶よりはマシな挨拶をして、彼らの核抑止論も批判する広島市の松井一実市長は、教育の実践では広島市で(あの参政党憲法でも礼賛している)教育勅語を使わせるような右翼市長です。
世の中、本当に矛盾しているというか、うまくいかないというか、しんどい話だらけです。
記事の改訂もgoo版まで手が回りませんので、コメントもはてなブログの方でお願いします。
上下ともクリックしてくださると大変うれしいです。
日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の田中熙巳代表委員(93)=埼玉県新座市=は9日、長崎市の平和祈念式典に参列後、報道陣の取材に応じた。被団協が参加を求める核兵器禁止条約について、石破茂首相が式典あいさつで言及しなかったことに「政府は今までの考えを改めておらず残念だ。われわれの要求に反している」と述べた。
田中さんは13歳の時に長崎で被爆した。日本政府は核禁止条約に参加しておらず、核保有国も入る核拡散防止条約(NPT)を重視している。田中さんは「首相は核兵器のことを本当に分かっている人ではない。核抑止力を強調することは間違っている」と語った。
© 一般社団法人共同通信社
「長崎を最後に」強く願い 語り部活動、平和のバトン継承―6歳で被爆の八木道子さん
長崎市で被爆し、伯母ら親族5人を失った。1970年ごろから運動に携わり、日本被団協の事務局長を計約20年務めた。2017年に代表委員に就任。昨年12月、ノルウェーで開かれた平和賞授賞式で講演し、核兵器廃絶を「心からの願い」と訴えた。
式から半年余りが過ぎ、「国際的に影響がある重要な受賞。核兵器がどういう兵器なのか、改めて伝える努力をしなければ」と力を込める。国内の関心は高まったものの、運動に加わるまでには発展していないと感じており、「関心を持った人が頑張れる体制をつくっていく」と話す。
広島、長崎以降、核兵器が使われていないことについては「被爆者が『核のタブー』をつくり上げるのに必死の努力をしてきた」と評価しつつ、「非常に危険な時もあった」と指摘。「これからも絶対使われないとは言えない」と警鐘を鳴らす。
被爆80年。進む高齢化を念頭に、これまで体験を話さないできた被爆者に証言を促したいと思う一方、「被爆者が体験を通して核兵器を語るのは終わる時が来た。証言活動の大きな転換期だ」とも考えている。次世代に期待し、「証言を生かすことが大事。知恵を出し合い、エネルギーを使い、相手の心を動かす運動をつくってほしい」と語る。
「核戦争になれば人類は破滅する。核をなくすのは人類最大の課題で、私にとって一番意義のある仕事」。そう話す田中さんは80年目の夏も全国で証言や講演に奔走する。これからを担う人たちに「日本が戦争に至り、平和な国になった経緯を理解する必要がある。そして、どういう国にしていくか、夢を持ってほしい」と呼び掛けた。
被団協代表委員の被爆体験 :「惨状を鮮明に記憶する最後の世代」―田中熙巳さん
日本被団協の3人の代表委員の被ばく体験(講演録などを基に構成)
田中熙巳(たなか・てるみ)

日本外国特派員協会での記者会見で(2024年10月22日撮影、時事)
1932年4月生まれ、被爆当時中学1年生、13歳。被団協役員として最高齢の92歳だが、当時の様子を鮮明に記憶する最後の世代の責務として、精力的に自らの体験を伝え続けている。
満州(中国東北部)で生まれた。軍人だった父親が病死したため、5歳で一家で日本に引き揚げ、親族を頼って長崎市で暮らすようになった。爆心地から約3.2キロの自宅で被爆。親族らが住んでいた浦上地区に探しに行く途上、焦土と化し、数えきれないほどの死体が転がり、全身にやけどを負いながら手当も受けられずにうずくまる多くの人を目にした。叔母といとこは炭がらのようになって自宅跡に転がっているのを発見。その後、祖父、叔父も亡くなり、5人の親族を原爆で失った。極貧の家計を支えるため、中学生でもできる仕事を探して必死で働いた。
東北大学の助手として勤務していた1970年頃から被爆者運動に関わるようになる。自身は原爆による深刻な健康被害を受けていないことから、当初は「支援者」的なスタンスだったが、原爆の悲惨さが世界に伝わっていない現況を変えなければならないと国際会議などにも積極的に参加、ニューヨークの国連本部での原爆展の開催を実現した。20年あまり被団協の事務局長を務め、2017年代表委員に就任。
田中重光(たなか・しげみつ)
4歳の時に爆心地から6キロの長崎県時津町で被爆。祖父と弟と庭先で遊んでいたときにあたり一面が真っ白に光り、裏山に避難する途中、大きな爆発音と強烈な爆風に襲われた。原爆投下から3日後に爆心地に知人の無事を確かめにいった母親は肝臓や甲状腺の障害で入退院を繰り返すようになり、そのことで母に暴力をふるった父も肝臓がんで亡くなった。
箕牧智之(みまき・としゆき)
被爆当時3歳。1945年3月の東京大空襲を受けて、5月に父の故郷である広島に疎開。原爆が投下された時は、爆心地から約17キロ離れた旧飯室村(現在の広島市安佐北区)の自宅で遊んでいた。市内で働いていた父が戻らないのを心配した母に連れられ、翌日、翌々日と爆心地近くまで探しに行き被爆。
バナー写真 : ノーベル平和賞受賞式のためにノルウェー・オスロに到着した被団協代表委員の3人。左から田中熙巳さん、箕牧智之さん、田中重光さん(ロイター)
日本被団協の代表委員 田中熙巳さん(93)が被爆証言を収録し講演 核なき世界へ 若者たちに呼びかけ
去年、ノーベル平和賞を受賞した日本被団協の代表委員の田中熙巳さん(93)が長崎市で講演し、若者に核兵器廃絶へ向けた活動を継承してほしいと呼びかけました。
去年、ノーベル平和賞の授賞式で核の非人道性を世界に訴えた日本被団協の代表委員で長崎原爆で被爆した田中熙巳さん、93歳。長崎を訪れたのは、去年8月9日の平和祈念式典以来で、講演の前には被爆証言の動画配信を続ける日本被団協の県組織、長崎被災協のインタビューに応じました。
日本被団協・代表委員 田中熙巳さん(93):
「ガラス戸が飛んできた。あとでわかった。それが私の上に被さっている。被さった時に痛かったろうと思うんですけど、被さっていること自体も自覚がない。ガラス戸が1枚も割れなかった。それで私はけがをしないで済んだんです」
田中さんは、旧制県立長崎中学校の1年生だった13歳の時、爆心地から3.2キロ離れた長崎市中川町の自宅で被爆。母親と親族を捜すため、爆心地付近に入りましたが、叔母2人を含む親族5人を失いました。
田中熙巳さん:
「真っ黒に焼けて骨が出ているような死体が散乱している。2、3人が亡くなって、ほっぽり出されているのを見て、(心を)閉じました。何も感じなくなりました。感じないようにしたと言った方がいい。荼毘に付したおばさんの場合は、焼いた後に骨を拾うことになりましたから、その時は、その時だけ、ものすごい動揺しましたね。すごく大泣きしました。立っていられないくらい」
午後には、長崎大学医学部が主催した講演会に出席し、オンラインで参加した学生を含め約530人に自身の被爆体験や日本被団協の活動の歩みについて語りました。
田中熙巳さん:
「若い人たちよ。政府が核兵器禁止条約に署名し、批准するようにするにはあなたたちが動かないとだめですよ。対話をしてどういうことをやっていけばいいかということを話し合ってほしい」
田中さんは、8月9日の長崎平和祈念式典に参列する予定です。
更新日:令和7年8月6日
総理の演説・記者会見など
今から80年前の今日、1発の原子爆弾が炸裂(さくれつ)し、十数万ともいわれる貴い命が失われました。一命をとりとめた方々にも、筆舌に尽くし難い苦難の日々をもたらしました。
内閣総理大臣として、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊(みたま)に対し、ここに謹んで、哀悼の誠を捧(ささ)げます。そして、今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心からのお見舞いを申し上げます。
2年前の9月、広島平和記念資料館を、改装後初めて訪問をいたしました。80年前のあの日、立ち上るきのこ雲の下で何があったのか。焦土となり灰燼(かいじん)に帰した街。黒焦げになった無辜(むこ)の人々。直前まで元気に暮らしておられた方が4,000度の熱線により一瞬にして影となった石。犠牲者の多くは一般市民でした。人々の夢や明るい未来が瞬時に容赦なく奪われたことに言葉を失いました。
広島、長崎にもたらされた惨禍を決して繰り返してはなりません。非核三原則を堅持しながら、「核兵器のない世界」に向けた国際社会の取組を主導することは、唯一の戦争被爆国である我が国の使命であります。
核軍縮を巡(めぐ)る国際社会の分断は深まり、現下の安全保障環境は一層厳しさを増しています。しかし、だからこそ、国際的な核軍縮・不拡散体制の礎である核兵器不拡散条約(NPT)体制の下、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現に向け、全力で取り組んでまいります。
来年のNPT運用検討会議に向けて、対話と協調の精神を最大限発揮するよう、各国に引き続き強く呼びかけてまいります。また、「ヒロシマ・アクション・プラン」に基づき、核兵器保有国と非保有国とが共に取り組むべき具体的措置を見出すべく努力を続けてまいります。
「核兵器のない世界」の実現に向け歩みを進める上で土台となるのは、被爆の実相に対する正確な理解です。
長年にわたり核兵器の廃絶や被爆の実相に対する理解の促進に取り組んでこられた日本原水爆被害者団体協議会が、昨年ノーベル平和賞を受賞されたことは、極めて意義深く、改めて敬意を表します。
今、被爆者の方々の平均年齢は86歳を超え、国民の多くは戦争を知らない世代となりました。私は、広島平和記念資料館を訪問した際、この耐え難い経験と記憶を、決して風化させることなく、世代を超えて継承しなければならないと、決意を新たにいたしました。
政府として、世界各国の指導者や若者に対し、広島・長崎への訪問を呼びかけ、実現に繋(つな)げています。資料館の年間入館者は、昨年度初めて200万人を超え、そのうち3割以上は外国からの入館者となりました。日本だけでなく、世界の人々に被爆の実相を伝えていくことも、私たちの責務です。
「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」は、施行から30年を迎えました。原爆症の認定について、できる限り迅速な審査を行うなど、引き続き、高齢化が進む被爆者の方々に寄り添いながら、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策を進めてまいります。
結びに、ここ広島において、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを改めてお誓い申し上げます。原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊の安らかならんこと、併せて、ご遺族、被爆者の皆様並びに参列者、広島市民の皆様のご平安を心より祈念いたします。
「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」。「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」。公園前の緑地帯にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれた、歌人・正田篠枝(しょうだ しのえ)さんの歌を、万感の思いを持ってかみしめ、追悼の辞といたします。
令和7年(2025年)8月6日
内閣総理大臣 石破茂
長崎への原爆投下から80年となったきょう(9日)、石破総理は長崎市で開かれた平和祈念式典に出席し、被爆の実相の正確な理解をいっそう進めていくと強調しました。
【石破総理あいさつ全文】
本日ここに、被爆80年目の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に当たり、内閣総理大臣として、犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げますとともに、今なお後遺症に苦しんでおられる方々に、心からのお見舞いを申し上げます。今から80年前の今日、この街は、一発の原子爆弾により、一瞬にして一木一草もない焦土と化しました。広島に投下されたものを上回る威力のプルトニウム型爆弾によって、7万人ともいわれる人々の命と未来が一瞬にして奪われ、その多くは一般市民の方々でした。惨状の中でなんとか一命をとりとめた方々も、長く健康被害に苦しまれてきました。
私は内閣総理大臣就任後、先の大戦において多くの命が失われた硫黄島、沖縄のひめゆり平和祈念資料館、被爆地となった広島を訪れ、本日、ここ長崎に参りました。80年前、この国で何が起きたのか。戦争の実態と悲惨さ、原子爆弾の被害の過酷さを、決して風化させることなく、記憶として継承していかなければなりません。被爆の実相の正確な理解を、世代と国を越えて、一層促進していく決意であります。高齢化の進む被爆者の方々に対し、今後とも、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策を進めてまいります。原爆症の認定について、一日も早く結果をお知らせできるよう、できる限り迅速な審査を行うよう努めてまいります。被爆体験者の方々についても、昨年12月から、幅広い一般的な疾病について被爆者と同等の医療費助成を開始しており、引き続き着実に実施してまいります。
令和7年2025年8月9日内閣総理大臣・石破茂
新エブリワンブログはこちら。
引っ越しを完了しておりますので、ぜひブックマークをお願いいたします。
上下ともクリックしてくださると大変うれしいです。




