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公明党の斉藤鉄夫代表が2025年10月10日、自民党の高市早苗総裁との党首会談で、連立政権からの離脱を伝えたとのことです
斎藤代表は自民派閥の裏金問題を受けた企業・団体献金の規制強化に、自民が応じないことなどを理由に挙げました。
1999年の自民、自由党、公明の連立政権発足以来、26年間続いた自公関係は解消されたことになります。
斎藤代表は高市総裁から自分だから解消するのかと聞かれてそうではないと答えましたが、今の石破茂首相もちっとも企業・団体献金の強化などしません。
それでも石破時代は連立からの離脱なんてことは公明党は言いませんでした。
やはり、高市総裁が自分の盟友である裏金・壺議員筆頭の萩生田光一氏を幹事長代行にしたのがたぶん致命傷だったのでしょう。

あと、公明党の推薦を拒絶して当選した小野田紀美議員を選挙運動のキャプテンにしたのが公明党の逆鱗に触れたのだと思う。
高市早苗総裁と斎藤鉄夫代表が自公党首会談。「公明、連立離脱の見方強まる 閣外協力に転じる案が浮上」(毎日新聞)。それでは公明党が第2自民党の維新や第3自民党の国民民主党に続いて第4自民党になるだけだ。
そんな中、石破茂首相の戦後80年所感が公表されました。
確かに彼がオタクらしくよく勉強しているのがよくわかり、知性に問題のある高市総裁が首相だったら絶対書けない内容です。
また、安倍晋三氏の70年談話よりずっと優れているといえます。
この所感では、なぜ戦前の日本がアジア太平洋戦争を避けられなかったのかについて書かれており、
「政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走した」
というのはその通り。
また、石破氏が現在は文民統制の
「制度的な手当ては行われた」
としつつ、その制度を適切に運用するには
「無責任なポピュリズム(大衆迎合主義)」
「偏狭なナショナリズム」
をしてはならないとしています。
これは明らかに高市総裁と参政党などへの牽制です。
石破茂首相は大日本帝国による植民地支配と侵略戦争を真摯に反省してお詫びする戦後80年談話を出すべきだ。石破談話を絶対に阻止せんとする安倍派議員や安倍信者のネトウヨに負けるな。
しかし、石破所感で触れていない肝心なことが二つ。
まず天皇という言葉がこの所感では1回しか出てこず、それも美濃部達吉氏の「天皇機関説」という言葉でだけです。
石破氏は大日本帝国憲法の欠陥として、内閣総理大臣に特別な権限がなく、補弼内閣でしかなかったことに触れていますが、内閣が誰を補弼していたかというと、それは天皇なんです。
そもそも、大日本帝国憲法では天皇が絶対不可侵とされ、石破氏も言うように統帥権を独占し、そして太平洋戦争も昭和天皇が宣戦布告して開戦しました。
そういう昭和天皇の戦争責任につながる歴史の真実は、石破見解では見事に隠蔽され、主語として天皇が出てこないように徹頭徹尾守られています。
これでは
「常に歴史の前に謙虚であるべきで、教訓を深く胸に刻まなければならない」
という警告を石破氏自身が踏みにじっていると言われても仕方ないです。
【#憲法記念日】侵略戦争と植民地支配の反省の元に作った日本国憲法が「よい憲法」だとわかるためには、戦前の日本が起こした侵略戦争であるアジア太平洋戦争と植民地支配に対する理解と深い反省が必要だ。
もう一つ、日本が侵略戦争を起こした原因の一つである、天皇を絶対化する神社神道が国教化された国家神道体制についても、石破氏は何も触れていません。
天皇の赤子として臣民が死ぬ装置として、神社の神官は国家公務員とされ、神社神道が国教化して、戦争で死んだ兵士だけが英霊として祀られる靖国神社が作られていたのも、アジア太平洋戦争突入を防げなかった大きな理由です。
その靖国神社に首相として公式参拝しようと虎視眈々と狙っているのが高市早苗総裁です。
石破氏は戦後80年を迎えて戦争の記憶を持つ人が少なくなり、風化が危ぶまれていると懸念も示したうえで
「二度とあのような惨禍を繰り返すことのないよう、 能う限りの努力をする」
と宣言しておきながら、この国家神道と靖国神社問題をあえてスルーしています。
あと、石破氏は戦争については書いても「侵略」とは一言も言わないし、朝鮮半島などでの植民地支配については全く触れず反省していません。
これで能う(あたう)限りの努力をしていると言われてもアジアの諸国民は納得は出来ず、食い足りないことおびただしいと言えます。

日本の戦争責任。日本はアジア諸国を侵略し、植民地支配した。未来への責任は今の私たちが担っている。
そして、石破氏は戦争を全力で阻止すると言いながら、その一番の仕組みとなる戦争放棄の憲法9条にも一切触れません。
なぜなら、彼は交戦権否認と戦力不保持を規定した憲法9条2項削除論者だから。
しかし、それでも、この所感で石破氏は高市早苗より100倍マシだということを示しては見せました。
いま、公明党の連立離脱という危機的状況にあたって、高市推し・自民党推しの読売新聞が、石破氏に内閣総理大臣辞任を撤回してもらって石破総理・高市総裁で行くべしという
「総総分離でしのぐしかない」公明の連立離脱でささやかれだした仰天シナリオ
という記事まで書いています。
高市氏とそれを取り巻く右派は大の石破嫌い・公明党嫌いなわけですから、せっかくつかみかけた総理の地位を棚上げにしてまで公明党を引き留め、石破氏に続投させる総総分離なんて一番拒否したいはずの案です。
しかし、まあそんなことができるもんなら、再び戦争への道に突き進まないために、石破総理続投は高市総理誕生よりは2万%マシなので、よろしいんじゃないですか。

参考記事
kojitakenの日記さんより
編集後記

政敵に嫌われることを恐れたら政治家はダメ。
麻生太郎のようになれ、石破茂(笑)。
石破茂首相辞任。「石破さんらしさが最後まで出せなかった」!?いえいえ、最初から最後まで政治家石破茂らしい優柔不断なヘタレ総理ぶりでした(笑)
もし、石破氏が本当に高市総理誕生に戦争の危険性を感じていたのなら、解散総選挙に打って出るべきでした。
その衆院総選挙で高市氏の支持母体である安倍派の裏金・壺議員を公認しないことにすれば、高市総理総裁誕生の目は完全に潰せて、自分は続投できたでしょう。
そういうことができない石破氏だから、戦後80年談話も出せず、辞めることが決まってから所感だか見解だかを出すような羽目になるわけで、うちは彼には何も期待していないんですがね。
そんな、自力では事態を打開する突破力がまるでない石破氏でも、周りが総総分離論でまた神輿に担ぎ上げてくれるのなら、その神輿に乗ったらいいと思いますよ。
高市氏よりダメな総理なんてありえないんですから。
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石破茂首相は10日夕、首相官邸で記者会見を開き、「戦後80年に寄せて」と題した所感を読み上げた。
歴代内閣が戦後談話で示した歴史認識は「引き継ぐ」とした上で、「なぜ、あの戦争を避けることができなかったのか」を「国民とともに考えたい」として検証する内容だ。首相官邸が配布した所感の文書の全文は次の通り。
◇
(はじめに)
先の大戦の終結から、80年が経ちました。
この80年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。
私は、3月の硫黄島訪問、4月のフィリピン・カリラヤの比島戦没者の碑訪問、6月の沖縄全戦没者追悼式出席及びひめゆり平和祈念資料館訪問、8月の広島、長崎における原爆死没者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日の全国戦没者追悼式出席を通じて、先の大戦の反省と教訓を、改めて深く胸に刻むことを誓いました。
これまで戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。
過去三度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。
国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。
第一次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。
政府及び軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜(むこ)の命を犠牲とする結果となってしまったのか。米内光政元総理の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。
戦後80年の節目に、国民の皆様とともに考えたいと思います。
(大日本帝国憲法の問題点)
まず、当時の制度上の問題が挙げられます。戦前の日本には、政治と軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。
大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権は独立したものとされ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制」の原則が、制度上存在しなかったのです。
内閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班とされつつも、内閣を統率するための指揮命令権限は制度上与えられていませんでした。
それでも、日露戦争の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコントロールすることができました。丸山眞男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。
元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えたのちには、大正デモクラシーの下、政党が政治と軍事の統合を試みました。
第一次世界大戦によって世界に大きな変動が起こるなか、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。1920年代の政府の政策は、幣原外交に表れたように、帝国主義的膨張は抑制されていました。
1920年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。軍人は肩身の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされています。
従来、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼(ほひつ)事項として解釈運用されていました。文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます。
(政府の問題)
しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府及び議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。
政党内閣の時代、政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党は国民の信頼を失っていきました。1930年には、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権干犯であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。
しかし、1935年、憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説について、立憲政友会が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。ときの岡田啓介内閣は学説上の問題は、「学者に委ねるより外仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説を否定する国体明徴声明を二度にわたって発出し、美濃部の著作は発禁処分となりました。
このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。
(議会の問題)
本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます。
その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。斎藤議員は1940年2月2日の衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争の目的について政府を厳しく追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説は陸軍を侮辱するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成296票、反対7票の圧倒的多数で斎藤議員は除名されました。これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有(けう)な例でしたが、当時の議事録は今もその3分の2が削除されたままとなっています。
議会による軍への統制機能として極めて重要な予算審議においても、当時の議会は軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。1937年以降、臨時軍事費特別会計が設置され、1942年から45年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院・貴族院とも基本的に秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。
戦況が悪化し、財政がひっ迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益と面子(メンツ)をかけ、予算獲得をめぐり激しく争いました。
加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家が国粋主義者や青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗殺されたのはいずれも国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。
五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府関係者を含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害したことは言うまでもありません。
(メディアの問題)
もう一つ、軽視してはならないのはメディアの問題です。
1920年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった頃から、メディアの論調は、積極的な戦争支持に変わりました。戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。
1929年の米国の大恐慌を契機として、欧米の経済は大きく傷つき、国内経済保護を理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。
深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが昂揚(こうよう)し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭しました。主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界においても、自由主義、民主主義、資本主義の時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義や国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。
こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本本土の数倍の土地を占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑され、ナショナリズムは更に高まりました。
日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌は松岡洋右による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937年秋頃から、言論統制の強化により政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。
(情報収集・分析の問題)
当時、政府を始めとする我が国が、国際情勢を正しく認識できていたかも問い直す必要があります。例えば、ドイツとの間でソ連を対象とする軍事同盟を交渉している中にあって、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、ときの平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職します。国際情勢、軍事情勢について、十分な情報を収集できていたのか、得られた情報を正しく分析できていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。
(今日への教訓)
戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。日本国憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないと定められています。また、自衛隊は、自衛隊法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています。
内閣総理大臣が内閣の首長であること、内閣は国会に対して連帯して責任を負うことが日本国憲法に明記され、内閣の統一性が制度上確保されました。
さらに、国家安全保障会議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されています。情報収集・分析に係る政府の体制も改善されています。これらは時代に応じて、更なる進展が求められます。
政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。他方、これらはあくまで制度であり、適切に運用することがなければ、その意味を成しません。
政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります。現在の文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断の努力が必要です。無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持(きょうじ)と責任感を持たなければなりません。
自衛隊には、我が国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から政治に対し、積極的に説明し、意見を述べることが求められます。
政治には、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務があります。組織が割拠、対立し、日本の国益を見失うようなことがあってはなりません。陸軍と海軍とが互いの組織の論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令と軍政とが連携を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。
政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。海軍の永野修身軍令部総長は、開戦を手術にたとえ、「相当の心配はありますが、この大病を癒(いや)すには、大決心をもって、国難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、東條英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。このように、冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。
政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会とメディアです。
国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は一時的な世論に迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。
使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。先の大戦でも、メディアが世論を煽(あお)り、国民を無謀な戦争に誘導する結果となりました。過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。
安倍元総理が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂躙(じゅうりん)、自由な言論を脅かす差別的言辞は決して容認できません。
これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靱(きょうじん)な民主主義が何よりも大切です。
ウィンストン・チャーチルが喝破したとおり、民主主義は決して完璧な政治形態ではありません。民主主義はコストと時間を必要とし、ときに過ちを犯すものです。
だからこそ、我々は常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。
自衛と抑止において実力組織を保持することは極めて重要です。私は抑止論を否定する立場には立ち得ません。現下の安全保障環境の下、それが責任ある安全保障政策を遂行する上での現実です。
同時に、その国において比類ない力を有する実力組織が民主的統制を超えて暴走することがあれば、民主主義は一瞬にして崩壊し得る脆弱(ぜいじゃく)なものです。一方、文民たる政治家が判断を誤り、戦争に突き進んでいくことがないわけでもありません。文民統制、適切な政軍関係の必要性と重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。政府、議会、実力組織、メディアすべてがこれを常に認識しなければならないのです。
斎藤隆夫議員は反軍演説において、世界の歴史は戦争の歴史である、正義が勝つのではなく強者が弱者を征服するのが戦争であると論じ、これを無視して聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤ることがあってはならないとして、リアリズムに基づく政策の重要性を主張し、衆議院から除名されました。
翌年の衆議院防空法委員会において、陸軍省は、空襲の際に市民が避難することは、戦争継続意思の破綻(はたん)になると述べ、これを否定しました。
どちらも遠い過去の出来事ではありますが、議会の責務の放棄、精神主義の横行や人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りあるものがあります。歴史に正面から向き合うことなくして、明るい未来は拓(ひら)けません。歴史に学ぶ重要性は、我が国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなければなりません。
戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今だからこそ、若い世代も含め、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的に考え、将来に生かしていくことで、平和国家としての礎が一層強化されていくものと信じます。
私は、国民の皆様とともに、先の大戦の様々な教訓を踏まえ、二度とあのような惨禍を繰り返すことのないよう、能(あた)う限りの努力をしてまいります。
令和7年10月10日
内閣総理大臣
石破 茂
公明党が連立政権離脱、26年の自公協力に幕 政治とカネ「限界」
公明党の斉藤鉄夫代表は10日、自民党の高市早苗総裁との党首会談で、連立政権からの離脱を伝えた。自民派閥の裏金問題を受けた企業・団体献金の規制強化に、自民が応じないことなどを理由に挙げた。1999年の自民、自由党、公明の連立政権発足以来、26年間続いた自公関係は解消された。
約1時間半の会談後、高市氏は記者団に対し「一方的に連立政権からの離脱を伝えられた」と述べた。斉藤氏は高市氏と別に会見し、今後の自民との選挙協力を含む関係について「白紙とする。区切りをつける」と語った。
斉藤氏が高市氏に示した企業・団体献金の規制強化案は、受け取りを党本部と都道府県組織に限る内容。高市氏はこの日の会談の位置づけについて「(公明が)地方の声を伝えるのが議題だった」「何かを決めるということではなかった」とし、公明から規制強化案について「この(会談の)場で賛否を示すように求められた」と不快感を記者団に示した。党への持ち帰りを提案したが、公明から「それは具体的な回答ではない」として、連立離脱を伝えられたと説明した。
公明は、高市氏が自民役員人事で、旧安倍派幹部で裏金問題に関与した萩生田光一氏を幹事長代行に起用したことも問題視している。斉藤氏は会見で「自民党の不祥事を国民に説明し(自民を)応援することに、地方議員を含め限界が来ている」と強調した。
臨時国会での首相指名選挙についても、斉藤氏は「改革が実現不可能なのであれば、とても『高市早苗』と書くことはできない」と会見で明言した。公明は斉藤氏に投票する。
首相指名選挙は衆参両院の本会議で行われ、投票総数の過半数を得た議員が指名される。衆院での会派別勢力は、自民が196で、公明の24を得られなければ、過半数の233に一層届かなくなる。
公明は、小渕恵三政権下の99年10月、自民と自由の連立に加わった。野党時代も含めて26年間維持してきた自公関係が終焉(しゅうえん)した。
自公関係は10日、公明党が自民党を見限る形で26年の歴史に幕を下ろした。自民に踏まれてもついてくる「げたの雪」と揶揄(やゆ)された公明による関係解消の宣言は、少数与党を孤立無援に追い込み、高市早苗総裁をさらなる窮地に立たせる。
10日午後、約1時間半にわたって高市氏との会談を終えた公明の斉藤鉄夫代表は、厳しい表情で言葉を紡いだ。「選挙協力はいったん白紙にします。『お互いに頑張りましょう』と握手して別れました」
会談で斉藤氏は、自公関係を解消する理由に「政治とカネ」をめぐる方向性の違いを挙げた。企業・団体献金の規制強化を求めたが、明確な回答が得られず、政治不信の解消は果たせないとの思いを強めたという。
関係解消に向けた予兆はあった。総裁選を終えた4日、高市氏と向き合った斉藤氏は「政治とカネ」「歴史認識と靖国参拝」「外国人との共生」の3点の懸念を伝えた。「友党」の異例のあいさつが放った緊張感を、祝賀ムードに包まれる自民側は察知できなかった。
公明が、さらに態度を硬化させたのは7日。麻生太郎元首相を副総裁に、旧安倍派幹部の萩生田光一元政調会長を幹事長代行に据える人事で、ある公明議員は言った。「公明軽視の姿勢がよくわかった」
公明幹部を名指しで批判
麻生氏は、首相時代の2009年に衆院解散の時期を見誤り、自公政権を野党に転落させた。23年には、安保関連3文書の閣議決定をめぐり公明幹部を「動かなかったガンだった」と名指しで批判。「公明と距離がある議員」との認知を広げた。
裏金問題で処分を受けた萩生田氏は、公明からすればもっとも政権運営の中枢に置くべきではない人物だった。裏金問題に端を発する政治不信に巻き込まれた公明。萩生田氏は政策秘書(当時)が政治資金規正法違反罪で8月に略式起訴されるなど、裏金問題に深く関与した印象が強く、高市氏への不信感は募った。
火に油の極秘会談
さらに、自公関係の終わりを見越したような動きが火に油を注ぐ。高市氏は5日夜、国民民主党の玉木雄一郎代表と極秘で会談。翌6日には麻生氏が同党の榛葉賀津也幹事長と接触した。公明幹部は「国民と組めばいいんだ」と明け透けに語った。
公明はその後、急速に連立離脱に向けた動きを加速させていく。「拙速な判断を避けるべきだ」と説得するベテランの姿もあったが、斉藤氏は首を縦に振らなかった。公明議員の一人は「もう『離脱』の結論ありきだ」と語り、支持母体の創価学会からも、連立離脱を求める声があったとの見方を示した。
「この場で賛否を示してほしい」。10日の会談で斉藤氏は、党内で検討したいとする高市氏に詰め寄り、即決を求めた。一刻も早く26年の関係に終止符を打とうとする思いがにじんだ。
公明の前途は多難だ。権力から遠ざかることを踏まえて「党勢の縮小は確実だ」との諦めに似た声も聞こえる。公明の決断が与える影響は、今はまだ見通せない。
「総総分離でしのぐしかない」公明の連立離脱でささやかれだした仰天シナリオ
2025/10/10 19:55 読売新聞
吉田清久
公明党の連立政権離脱で永田町が大揺れだ。自公政権が成立して四半世紀。これまで何度も自公の間に亀裂が走ったことがあるが、今回は連立政権離脱にまで発展した。公明党は自民党から「踏まれてもついてくる下駄の雪」と 揶揄やゆ されてきたが、その雪がついにはがれたわけだ。
政権陥落の大ピンチで浮上、「総総分離」とは
公明党との党首会談を終えて、記者の質問に答える自民党の高市総裁(10日、東京都千代田区で)=高橋美帆撮影
自民党にとって政権陥落の大ピンチである。ここはどんな奇策でも飛びつかねばばらない。
そこで自民党内でささやかれ出したのが「総総分離」である。
総総分離とは何か。
従来、自民党総裁は就任後、そのまま国会の首相指名選挙で、内閣総理大臣(首相)に選ばれる。総総分離は、総裁と総理を別人物とするものだ。
過去にも浮上した奇策
「総総分離」は過去に何度も浮上したことがある。いずれも自民党が大きく揺れたり、窮地に陥ったりしたときだ。
退陣表明した当時の宇野宗佑首相(自民党総裁)(1989年7月撮影)
例えば、リクルート事件発覚後の1989年の参院選。値上がりが確実とされたリクルート関連会社の未公開株が政財界に大量に譲渡され、大規模な贈収賄事件に発展。自民長期政権の金権体質が批判され、自民党は史上最少の36議席に落ち込む大敗。当時の宇野宗佑首相が「総理と総裁は別もんじゃないかね」と漏らして騒ぎとなった。
1982年に鈴木善幸首相が退陣し、後継をめぐり党内が割れたときも「中曽根康弘総理、福田赳夫総裁」で一時収まりかけたこともある。
そして今回。
自民党のベテラン議員が言う。
「退陣表明した石破茂首相に、退陣を撤回してもらう。高市さんも総裁をそのまま続ける。それでしのぐしかない。そうなれば公明党は連立離脱を撤回してくれるかもしれない」
自公の選挙協力なし、2割が落選?
公明党の斉藤代表(左)と会談する自民党の高市総裁(10日午後、国会で)=米山要撮影
「総総分離」の実現性はまだわからない。
自民党衆院議員が公明党の斉藤鉄夫代表の記者会見でドキリとしたのは、自公の選挙協力を連立離脱に合わせて「いったん白紙にする」と明らかにしたことだ。永田町では、公明党の選挙協力がなければ自民党衆院議員の2割程度が落選するとの試算が走り回っている。
「総総分離」浮上の背景にはそんな選挙事情も見え隠れする。
いずれにせよ、政治空白をこれ以上続けられては困る。(編集委員・吉田清久)
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